7月5日付 日本経済新聞朝刊 文化面寄稿記事 「田中宏和だよ全員集合」

「田中宏和だよ全員集合 」
同姓同名探して目下79人、一緒にイベントや本出版 田中宏和

 この一枚の集合写真には、67人が写っている。全員が男であるという以外に実は共通点がある。上は67歳から下は7歳まで、北は仙台、南は熊本から集まった。ここにいるすべての人の名前が「田中宏和」。昨年の田中宏和運動全国大会2011でのギネス記録申請用の証拠写真である。

 運命のドラフト1位

 ことは1994年の秋に遡る。毎年恒例のプロ野球ドラフト会議。「近鉄 田中宏和 投手 桜井商業」なんと自分がドラフト1位に指名された。全身総毛立ち、血液が逆流するような興奮に襲われた。昭和44年(1969年)に生まれた子どもとしては、当時の誰もが憧れる夢のプロ野球選手になれた。自分と同姓同名の人が指名されたというだけで。もうひとつの人生のリアリティーを感じた。翌年のお正月、このエピソードをネタに年賀状を出してみた。錯覚と妄想による軽はずみな行動が、すべてのはじまりだった。

 この「ドラフト会議で指名される事件」をきっかけに、なぜか毎年必ず一人は自分と別人の「田中宏和さん」の情報を耳目にすることになる。そして、その話題を翌年の賀状で発表する。つまり、新しい田中宏和さん発見の年次報告書を友人知人に毎年発行し続けていたのである。そのうち「喪中だけど今年の年賀状が欲しい」という人まで現れるようになった。

 この同姓同名集めの転機は、2002年の年末、糸井重里さん主宰の「ほぼ日刊イトイ新聞」で、これまで蓄積してきた田中宏和同姓同名年賀状をネット上に一斉放流したことだった。

 双子に会えた気分

 すぐに渋谷在住で渋谷にオフィスを構える田中宏和さんからメールが届いたのだ。近所だから会ってみよう。ほんの出来心で、同姓同名の人が目の前に現れた。「はじめまして。田中宏和です」「はじめまして。田中宏和です」。今まで生き別れていた双子に巡り会えたような陶酔感。自分がもう一人の自分と出会う濃密な親近感を覚えた。以来、年に一人は新たな田中宏和さんと会うことが楽しみになってしまったのである。

 田中宏和集会が7人になった09年。テレビの取材が入り、田中宏和運動は躍進しはじめた。

 田中宏和9人で「田中宏和御一行様」と掲げた観光バスを貸し切って、長野県在住の田中宏和さん2人に会いに行くツアーを実施。11人の田中宏和で歌った「田中宏和のうた」をリリースした。わたくしが作詞し、作曲・編曲は、ゲーム音楽やポケモンの作曲で世界的にファンが多い「作曲の田中宏和さん」による純田中宏和楽曲である。

 さらに14人の田中宏和が著者になった「田中宏和さん」を出版。わたくしが最初に会った「渋谷の田中宏和さん」が本職を生かしてブックデザインを担当した。昨年は震災で苦労された仙台の消防士の田中宏和さんと出会い、同姓同名楽曲の第2弾「名前さえあればいい」を発表した。

 歯医者さん、税理士さん、社労士さん、カメラマンさん、不動産屋さん、大学教授に国家公務員まで、とにかく田中宏和さんは多士済々。これまでにわたくし田中宏和が会った田中宏和さんは79人にのぼる。

 世界記録更新めざして

 昨年の田中宏和67人集会の記録は、ギネスの本審査でアメリカのカリスマ主婦マーサ・スチュアートがテレビの番組企画で164人の同姓同名を集めた記録が見つかったため、惜しくも認定されなかった。今年は大阪、名古屋、博多での田中宏和地区集会で新たな出会いを増やし、新記録達成を狙いたい。普通の名前で生きているだけで、ばかばかしいけど、世界一。これが当面の目標である。

 「自分で選んだわけじゃない。気づいた時には呼ばれてた」。先にご紹介した「田中宏和のうた」の歌い出しである。田中宏和運動に参加する田中宏和さんたちが図らずも口にするのが、名前を与えてくれた親に対する感謝だ。私自身、最も多い姓が田中である京都に生まれ、何の変哲も無い凡庸な名前と思い、幼い頃はむしろ嫌いだった。それがいまや、自分にとっては最高のキラキラネームだ。

 人間とは名前が同じというだけでここまで交流できる生きものだと「自分人体実験」でわかった。ただの名前という観念的なもので、たくさんの他人が集まって遊べる。名前というアイデンティティーを通じて、自己が解体される不可思議な世界。田中宏和さん同士が人生を交換するパラレルワールドが広がる。ゆくゆくはコンセプチュアル・ソーシャル・アートとして展覧会にも挑戦してみたい。

 生まれたばかりの田中宏和ちゃんにも会ってみたいものだ。本名でも偽名でも、名前の無い人はいない。人は名前とともに生きる生き物なのだろう。(たなか・ひろかず=会社員、「田中宏和運動」幹事)

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